昭和50年2月1日 朝の御理解
道教え・・・「
入力者 大坪謙一
御神訓、道教えの大綱というとこでございますね、この道教えの、今日はここのところのね、あの道教えということのところを頂くんです。「道教え」道の教えという。まぁそういう、道教え、道の教えとは、といったようなことまたテーマにお話を聞いて頂こうと思います。道教えの大綱とあります。この道教えというところを今日は頂くのですけれども、えー道の教えと( ? )道の教え、いわいる、金光大神の教えられること、と金光教の信心とはということになると思うです。
御神訓の一番初めに「一、今月今日で一心に頼め、おかげは和賀心にあり」とあります。
私どもが、神様に一心に願わせてもらう、縋らせて頂くということは「どうぞ病気が治りますように、こういう難儀な問題が解決のおかげになってまいりますように」というのが道の教えではないというのです。道の教えはどこまでも一心頼めということは、「私の心の中に和らぎ、賀ぶ、心を分からせて下さい。頂かせて下さい」私はもうこれが金光教の信心の芯だと思うです。同時に、えー道教えの全てが、このいうならば、和賀心を中心にして解き明かしていると思うんです。
ですから、一心例えば、頼むとか縋ると申しますけれども、どうぞ私の心の上にお繰り合わせを願う。形のお繰り合わせよりも、心のお繰り合わせを願えとおっしゃるところがよう分かります。ね、だから、御道の信心はここのところから、御道の信心の、まぁ始まりということになるのです。昨夜は月の最後の日でございますから礼によりまして、えー、月末御礼神話会がこのお広前で開かれます。昨日は直方のイクモトさんたち夫婦、それから熊本の松村さん達が夫婦。いわば遠隔地からも参加がありまして、もう本当に時間の経つのが惜しい、とうとう1時間で終わりますのを15分間延期しましょうという(笑い)沢山の中から十三名の方が発表なさいました。
その一人ひとりのお話を頂いておって本当に信心ちゃありがたいなぁということに尽きるのです。ね、もう本当にありがたいお話を聞かせてもろうて、昨日は光昭が司会を致しました。初めてでしたが、なかなかユーモラスな良い司会でした。(笑い)思わず今まで話したことのない人たちまでがつられようにしてお話をなさると、やっぱり内容を皆さんもっておられますからね、一言づつではありますけども素晴らしいんです。まぁその素晴らしい中の(?)をご紹介いたしますとね、熊谷さんがこういう発表の中にこういうことをいっておられます。
いつも馬鹿と阿呆で道を開けとか、馬鹿と阿呆になろうと、いつも決心してそのように勤めておるのですけれども、改めて気づかせて頂いたことはです。私は子供達の上にだけは、(笑い)馬鹿になってなかった、阿呆になってなかったといことに気づかせて頂いたというのです。私は本当に自分のごとのようにそれを、ハッと思わせて頂いたんです。実は、私もそうなのです。私は子供達の上には、もう大体馬鹿と阿呆になっとるようなつもりですけれども、家内の上には、家内だけには、まぁその文句が多いというところから見ただけでもですね、私がいかに家内の前にだけ、他の者の前には馬鹿と阿呆になっても家内の前にはやあり賢い(笑い)立派なご主人にような顔をしておったということに改めて気づかせて頂いて、昨夜から早速そのことに取り組ませて頂いたんです。
ありがたいですね。皆さん、あの、本当に馬鹿と阿呆になるならばです。もうすべて、自分周囲のすべての前に私は馬鹿と阿呆にならなければいけないと思うです。ね、そういうことになりませんとです。せっかくの和賀心がかげるのです。昨日私は、んー上野先生の発表を聞かせて頂いて、もう本当に素晴らしいと思わせて頂いたんです。昨日の朝から、昨日一日の自分が心の中に頂いたおかげの話しをしておりました。今、あー交代で御神飯の奉仕があります。もう三時半には、御神飯がここにお供えなさらなければならんのです。
ですから、もう二時ぐらいから皆起きます。
そして、その朝のいわば、あーゆっくりしておるようであって、まぁある意味ではいろいろ忙しいんです。結構。第一私の部屋にストーブをいれなければならない。いろいろありますのに、んー、ストーブを入れようと思っとったところが、あぁあの(?)「本当に前の晩に注意が足りなかった」とまぁ思うたといっとりましたけれども、油が入ってない。それで、廊下にいつも置いてある、あの石油の下しをするその中に、えー下しをするあの容器がありますから、そこでするからと、それにも入ってない。なかなかあのドラム官から出すのが、あのー油臭くなったりね、えー汚れたり、えーなかなかちょっと面倒なんです。それでもやはり、あのそうさせて頂いて、えー石油をストーブに注がしてもらい、火を入れさせてもろうて、そして終わらせて頂いたらちょうど御神飯が出来あがらろうとしておるところに、まぁ万事万端お繰り合わせを頂いて、えー手も臭もくならず御神飯の御用ができてのことをことを話しております。
その前日までは、ご承知のように体が非常にこの頃、そこ、ここが痛いんです。とくに手が痛いのです。おかげを頂いてところが昨日の朝はもう本当に、そのあっち走り、こっち走りさせて頂くのに、もう痛いも痒いも感じない健康のおかげを頂いておるもんですから、それがもう、シタパタさせて頂くそのことがありがたい。もうそれこそ、おーストーブに石油が入ってない。「あぁあ」えー、走っていった。ところが石油を下のにもまた入ってなかった。「あぁあ」とそれこそ、もう舌打ちでもでるようなところをです。もう本当に体が自由自在に動く動くということは、もうなんとありがたいことだろうかの一念で御用ができたというのです。
「もう、先生」そのことが昨日はお届けもあったんですけれども、もう朝そういう心の上におかげを頂いておりますと、次から次とありがたいことばっかりの中に御用をさせて頂く、昨日ちょっと、おー切手を買わせて頂きたいと思うて、総子ちゃんを連れて、外へもう久しぶりでました。もう暖かいもうそれこそ春の日差しのような中を郵便局にまいりましたところが、郵便局で、えーあの切手の記念切手ですか。が発売されてセットになってるやつがある。でこれをお買いなさいというて進められて、まぁ買っていった。その切手には、えー竜宮城の絵と、浦島太郎が亀に跨っておる絵と、それと、あぁ浦島太郎が玉手箱を開けて白髪のおじいさんになったおる図柄の切手が組になって発売されておったというのです。
まぁその中から本当にいつも親先生が言われるよういに、亀の背中に、いわいる親先生任せになっておけば、それはどういうところを通るでも必ず竜宮にいけれるんだと。それを日々の中に今日それを実感して感じると。帰ってそれを他の方達も一枚づつ分けさせて頂きながら、あの、まぁいろいろその切手の中からも信心でいろいろ思わせて頂いたんですけれどもという話しをしておりました。で最後の浦島太郎が玉手箱の蓋を開けて真白いおじいさんになるところの意味が分からなかったから、親先生にお尋ねするといったようなことでしたから、昨夜そのことを、まぁ聞いて頂いたことでしたけれども。
ね、まぁここでは神様任せということを、親先生任せという、いうならば私のことを、まぁ亀と、まぁ表現して下さる。その亀の背中にしっかりしがみ付いとりゃよいのですけれども、やはり海を渡って竜宮城へ行くのですから、その間には、それこそ外そうかと思うくらいに、こりゃもう降りなきゃいけんのじゃなかろうかと思うほどに荒い波を通るようなとこもあろうけれども、一心にすがって亀の背中から外れさえして行かなければ竜宮城に到着するということをです。まぁ、あぁ思うわせて頂くのですけれども、そこにおかげを頂いたそのあとのこと。
まぁ昨日一日、えーフミヨ先生の場合本当に竜宮に行っておるような心の状態じゃなかったろうかと思うのです。そして、んなら帰らせて頂いたところが、見るもの聞くものすべてが変わっておって時代が変わっておる。自分のしった者もだーれもいないというような寂しい中にです。ね、乙姫さまから頂いておった玉手箱「開けてはなりませんよ」というそれも忘れて開けてしまった、中から白い煙が出た、同時に白髪のおじいさんになったというのです。ですから、私どもが信心生活をさせて頂いておるのですけれども、ね、そういう、朝の時間を私が大事にせろということは、例えば昨日の、その親先生の朝のところの辺から思うてみると、本当に朝の時間を大事にしなければいけないということが分かりますね。
けども、そうゆうありがたい状態であったのですけれども、少しの波が高うなってきたりすると不安が生まれてくる。「はぁこりゃ大丈夫じゃろうか」と思うてくる。いわいる、そこを、まぁ乗り切ってならおかげを頂いてありがたい、ありがたい。勿体無い、勿体無いというておるけれども、そこにまた、そのなにか心に、ね、寂しい思いをするような時にです。ついつい日頃の教えを忘れて、いわば教えを行ずる一番大事にしなければならない時に大事にしないで、えー玉手箱の蓋を開けるようなことがあってはならないということだろうねというて、まぁお話させてもらいました。
昨日、んー、秋永嘉朗さんが発表しておりました。おかげを頂いて寒修行夫婦で毎日、えーおかげを頂くことがでけて、今日もこちらにまいります道すがあらに家内と二人で話してまいりました。これは、一月間というて、えー神様にお願いをさせて頂いておるけれども、「こりゃお前もう一年間この信心を続けようじゃないか」というところまで私どもの心がありがたいことに、えー、おかげを頂いておるという話しをいたしました。確かに私どもの信心というものがです。本当に、えー、生活信心から信心生活に入らなければいけないと言われますけれども、例えば、少年の、あのいわいる新聞配りの少年ですらもです。
それが生活に結びついておると、あの、朝の早い中にそれこそ一日でも欠かすことのない、あのことが、新聞配りができるじゃないか、私もあの、青年時代にその配りをいたしましたが、もう本当に四時には、あの新聞うけのところへ行かなきゃなりません。しかもこれは、あーいうならばもう生活なのですから、ね、それは今日は休もうというわけにはまいりません。信心が生活ところ離れておりますとです。なんか信心が別なものに考えられるようになりますとです。それが、やはりおっくになるのです。
ね、嘉朗さんの場合なんかは、その信心がです。もう生活の一部としてです。いうならば、段々まぁ同化していっておる。一緒になっておるようなものを感じるのです。ね、いうならば、朝参りのいうものがもう生活の中に入ってしまっておる信心。ね、今日もおかげ頂かなんならんから朝参りをするというのではなくて、もう信心そのものが生活と一緒になっておるということ。ね、それは、結局一心発起。例えば、なら新聞配りの少年ですらもそれがでけるのに、ね、切実におかげを受けなければならないという念願に燃えておるというならばです。そのくらいなものは、信心の上にも現すことができなければいけないね、といわけでございました。
佐田さん達がご夫婦で発表されました。こちらへ夕べ見えられましたところが、隣に私はまだ見ておりませんけれども、おー明日ですか。明日の修行あけの発表する人の名前がでておる。その中に家のおばあちゃんの名前が総代を代表してお話しなさることになったのを見せて頂いてです。今日、おばあちゃんが言いござったことがです。はぁこのことじゃったばいなと思わせて頂いたという話しをなさっておられます。
昨日お昼にちょっと、おーうつらうつらされておる時におばあちゃんちょっともう今日は大変なお夢を頂いたというて、そのおばあちゃんが、あー若奥さんに話されることです。合楽で何か大祭かなんかいろんな行事があっておるところにお参りをさせて頂いて、(?)親先生のところへご挨拶にまいりましたら、もう親先生が先にです。それこそ手をついて深々とおばあちゃんに親先生が頭を、もう下げられたお夢を頂いたというのです。ね、親先生のお話の中にいつも出てくるように、ね、ある時親先生がお夢を頂かれた。
三代金光さまが御結界をおりられて、そしてお広前で御祈念をなさっておられる親先生の前に手をついて、そして「大坪さん頼む」といわんばかりに深々とお手を下げられた時に、親先生が、わんわん声をあげて泣き出しなさったげなという話しを思いださせて頂いて、「おばあちゃん、ちょうど親先生が、おばあちゃんあなたに頭を下げなさったことは、ね、皆さん頼みますよと言われておるようなものじゃないだろうか」というて、えぇこちらへでらして頂いたら明日の発表がおばあちゃんだった。
「おばあちゃん、もうこのことを話されればいい」といったような、あの、本当に煥発を入れず神様のお働きにおそれいったというような話しをなさっておられました。ご主人のキョウゾウさんがお話をなさっておられました。今度の寒修行には、もういよいよもって教会を中心。今度ふくしん会という会の会長になられて、会のことに、または教会のことに熱情をかけられるということは素晴らしいことに気づかせて頂いておりますという発表をなさいました。それで、私はそのあとに申しました。佐田さん、おばあちゃんにだけ頭を下げるのじゃない。
お話しを頂いておるとです。佐田さんご一家に親先生が、いやいや金光大神が深々と頭を下げて佐田さん一家に「頼む」というておられるようなものを感じますねというて、えーお話しをいたしましたがです。ね、私はただただ、ね、おかげを頂くとか、ね、ご利益が目当の信心ではなくて、一心に頼め、おかげは和賀心にあるのだから。一心に頼ませて頂くことは和賀心のことを、いわいる形のお繰り合わせより、心のお繰り合わせのことを願わして頂くということに気づかせて頂いて、段々信心をさせておりましたら、ね、いうなら八年前ここの合楽教会の寒修行が始めて、以前その当時は五十日間でしたが。
をされます時に、佐田さん一家、ちょっと今度の寒修行はとにかく一家中で、えーおかげ頂こうじゃないですかというて話し合って、えー寒修行に参加させて頂いて、それが言わば、まぁやみつきというですか、ね、それがありがたいことが分からせて頂いて八年間今日まで続いておるということ。毎朝。ね、もうそのことだけでも私は素晴らしいと思うのですけれども、そのにはです。ね、一心に頼むところの焦点がです。とにかく和賀心に段々なってきたところに信心の楽しさ、ありがたさというものができてきたからだと思うのです。
私どもが段々信心を分からせて頂けば頂くほど、極めていけばいくほど熊谷さんの発表ではないけれども、ね、本当にこれほど、例えば、馬鹿と阿呆になるということに勤めておるという自分がです。ね、初めて気づかせて頂いた子供の前にだけは馬鹿と阿呆になっていなかった事実を気づかせて頂いたと言われるように、また、佐田さんの信心がです。本当に教会のこと、また、会のことに自分の信心の情熱がすべてそこにかけられるというほどしに信心が進んでいっておるということにです。私は今日の道教えとうことを感じます。
道の教えということは、そいゆうふうに育っていくことを教えられておるということでございます。今日はこの「道教え」と、御道の信心は何十年信心しております。こげなおかげも頂いた、あんなおかげも頂いたというだけで信心の成長が無いならばです。それは道教え道の教えを本当に行の上に現していないと悟らせてもろうて、ね、いうならば去年よりも今年の信心がです。いわゆる金光教、いわゆる教祖金光大神の教えられる教えのすべての、御教えの焦点がこの和賀心にあるということを思わせて頂く時です。その中に、ね、様々な信心修行の中からいよいよ和賀心を、いよいよ和賀心としての信心が成長する、育っていくそこからです。
ね、神様がそれこそ一礼申すと言われるような、ね、金光大神に天地の神様が一礼をいうておられます。頭を下げておあれます。ように私ども一人ひとりの上にもやはり神様の願いがあるのですからそうゆう願いがかけられておるのですから、その願いが少しづつでも成就していくというところのおかげになっていかなければならないということです。昨日最後に聞いて頂きましたお話の中に、ある方がもう大変熱心に最近毎日お参りをしておられます。ところが朝の御祈念がお参りができないから御祈念後に参ってみえるんです。
大変おかげを受けたかたですけれども、んー何年間か信心がそえになっておった。で最近
また信心を一生懸命なさっておられますが、このかたが毎日お参りをされてお届けをされる一番のことはです。ね、「私一家が今日ありますのは親先生あなたのおかげでございます。ありがとうございます」というのが、開講一番です。ほんに(本当に)考えてみるとそうだろうなぁと思うです。それにも関わらず何年間もようもご無礼したことであると自分でそのことのお詫びをなさっておられますけれども、んー最近段々おかげを頂かれてその方の近所にお父さんが八十にもなられるお父さんが一人暮らしておられます。
兄弟が何人もおられるのにそのお父さんが、なんちいうでしょうかね、愚痴っぽいとでもいうでしょうかね、不平不足が多いいもんですから子供たちがもうあんまり寄り付かんわけです。それでも、まぁ自分が同じ村内におるからというので、まぁご飯だけは自分の家に食べに見えるんだそうです。ところが「もう本当に親のことをいうちゃなりませんけれども私はもう親に食べにきてもらうとはいいばってんもう父親の面見るとも嫌」っちいう、もう赤裸々なです。お届けがあったんです。本当に親子でもねこうなったら、それでもやはりあの信心のありがたいことを父親に話して、ちったじいさんも変わらせたほうが良かろうと思うて言うけれども「そげん言うたっちゃお前は」私のこと総一ちゃんっていうて知っておられるわけです。
昔、ね、ですからもう「こげな自分から知っとるとば、どうしてあげな人ば拝まれるか」っちいうちからそのいうこと聞きません。本当に「父が助かりますように」というから私が父が助かるのじゃないあんた自身がもっと助からなければいけないよっち。もうしかも八十にもなられるおじいさん。しかも自分が見るおじいさんでもない。兄弟いくらもおるのにというものがあるのに、もう自分が見てあげとりますというその感じからです。ね、その日の御理解を頂いてなら今日はその辺のところは噛んで砕くようにして、あのー話してあるからというてその御理解を頂いて参りました。
そしたらもうそれこそ本当に涙を流さんばかりにして、自分の間違ったことに気づかせて頂いたというて帰られたんです。それからもう、本当にそのお父さんに対するところの考えかたが、まぁどうしてこんなに変わったじゃろうかっちいうくらい変わった。冷たいものなら温めてやっとこう、硬いものなら柔らかくもしてやっとこうというような心持ちであの食事の準備をさせて頂いたら、いつものようにやっぱり頂きにこられて、そしてから「もう私父から初めてこんなこと聞きました、お前がずーっとあげん合楽に参ってくれるけんじゃろう、村内でん俺ぐらい元気な病気もせんでおかげ頂いておるもんなおらん」ち「お前どんが参ってくれるじゃろうけん」っていうてもう心からそれを申しますじゃないですか。
もう私はもう自分の心が変わりゃ父親までも一緒に助かることができるというね、あのおかげを頂いてという、昨日一昨日の話しですけど。そういう話しの中かからいかに信心させて頂く者の心じたいだということ。ね、とにかく自分が分かれば、自分が地を低うしなければおられない。その地を低うするところにおかげというものは、お水のようなものですから低いところへ、低いところへと流れてくりのですよというお話を最後に話さして頂いたわけでございましたけれどもね、昨日の神話会の中から色々と皆さんの発表なさったことの中から今日の「道教え」道の教えというのは、そういうふうにあらせれ頂く、ならせて頂くことを説き明かしてあるということでございます。